少女終末旅行に終末は来ない(アニメ感想)

少女終末旅行というアニメーションが終わった。昨今のアニメはメディアミックス展開が当たり前となり、原作が完結していない作品を映像化する例が多い。少女終末旅行は「完結していない作品の終わり方」としてベストに近いものを見せてくれた。なお、私は原作未読組なので以下に登場する「この作品」という語は断りが無い限り今期に放送された12話までのアニメを指す。

「終わるまでは終わらないよ」の世界観

「終わるまでは終わらないよ」、ed冒頭で毎回流されるこの印象的なセリフがこの作品の世界観を支えている。滅んだ文明、殆どが死んでいるインフラ、散乱する兵器と戦いの傷跡、終末そのものである作品世界は1話から最終話に至るまで何の説明もなされない。主人公のチトとユーリが移動を続ける目的さえも明らかにはされない。こうした舞台設定に興味を抱き、真相を知りたがっていた視聴者は拍子抜けし、物足りないものを感じているに違いない。

しかし、説明がされないのは制作側の都合でも怠慢でもない。チトやユーリにとってこの「終わった世界」のすべてが自明のものであるからだ。世代間の情報格差デジタルネイティブ世代が取り沙汰される昨今であるが、あえてそれに近い情報の距離が視聴者と登場人物の間に設けられている。そしてその距離がバランサーとなって終末の世界に日常を生み出すことを可能にしている*1。自明である終末の世界の上に立つ日常であるからこそ、その日々に終わりはなく、終わらない。「終わるまでは終わらないよ」はこうして機能している。

 

終わらせない意味、終わらない理由

「ラストシーンの続き」は古今東西で物語を描く・観るにあたって必ず考えられてきた。歴史上で英雄的な活躍を遂げ、天寿を全うした人物の最期が醜く、みっともなかった例は多々ある。逆に全盛期に悲劇的な死を遂げた人物には世間の人気が集まり、物語になる。創作上でもヒーローは勝利の後どこかに去っていくか悲劇的な死を迎えるのが定石と言ってよいだろう。

少女終末旅行は人類が滅亡という敗北を迎え、人々がささやかな日常を失った*2というバッドエンドのルートではあるが「ラストシーンの続き」を描いている。現実の世界、人生を考えてみれば分かるが、致命的な出来事が発生しても世界、人生はそう簡単には終わってくれない。致命的なカタストロフィを迎えても苦しくとも辛くとも死ぬまで日常は続いていく。

決定的なカタストロフィの後の世界を描く作品に「セカンドインパクト」の新世紀エヴァンゲリオンがあるが、新世紀エヴァンゲリオンサードインパクトという本当の終わりを迎え、作品を終結させている。しかし同様に文明の崩壊後の世界を舞台に物語が進行していく少女終末旅行にはそうした本当の終わりは設定されていない。「いや、まだ原作未完だからアニメで描かれていないだけだろ」というツッコミもあるかもしれないが私はラストシーンのセリフから今後も描かれることは無いと考えている。

ユーリ「そうだ!チーちゃん、一番上に行ったらさ、そしたらその次は月に行こうよ!」

チト「月?」

ユーリ「行こうって言ったのチーちゃんじゃん」

チト「そうだっけ?でも月か。それもいいか。」

 どちらかが本当に死ぬまで終わらない(終わるまで終わらない)のが少女終末旅行の新規性であり魅力なのだ。

印象的なシーン

「ねえユー、人はなぜ生きるんだろうね」と尋ねたチトに対し、

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一呼吸置いてユーリはチトを殴る

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進路がズレて崖に突っ込もうとするケッテンクラート

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チトは慌てて進路を戻す

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崖に落ちそうなのにユーリがまったくのノーリアクション(しかも自分のせいで落ちそうなのに)なのがチトの運転を無条件に信頼しているユーリという関係性で好き♡

ここでユーリの肝の太さを見せることで5話の壁に激突しそうなシーン(居眠り運転、この事故未遂を受けてやむなく休憩する)の緊急性が際立つのも良い。

*1:現実的に考えれば少女2人がインフラの死んだ世界で生きていくのはあり得ないし、そのようなフィクションは視聴者の感覚が許さないだろう

*2:12話Aパートでささやかな日常がカメラに記録されていたという形で丁寧に描かれている