新海誠に負けた大人たち - 「天気の子」感想

新海誠監督最新作「天気の子」が公開された。今回も前作に続き観客にダメージを与える作品となっていた。

 

何がダメージを与えるか

新海作品に共通して描かれるものに「引き裂かれる2人」という表象がある。第一作の「ほしのこえ」が宇宙と地球に引き裂かれる2人のストーリーだったのが代表的で、その後の「秒速」「雲のむこう」「星を追う」「君の名は」でも共通して主人公2人に何らかの障害が降りかかる。そして今回の「天気の子」では何が2人を引き裂くことになったのか、それは社会であり、社会の「願いには相応の対価がある」という冷徹な法則である。

「天気の子」の序盤では大都会東京の巨大さ、複雑さが描かれ、帆高はその中で生きていくことがままならず、挫折する。ここで東京(≒社会)が徹底して大きな存在として描かれることは隠された伏線である。

中盤にかけて帆高は編集プロダクションで刺激的な日々を送り、陽菜と出会って2人で陽菜の力を活かしたビジネスを始める。陽菜の弟の凪を加えた3人でのささやかな暮らしは明るく、晴れやかに描かれる。しかし2人の楽しい生活は長くは続かない。警察、児相を始めとした社会は2人を追い込んでいき、陽菜は力の代償として身体を失っていく。序盤で描かれた大きな社会が帆高と陽菜が2人で生きていくことを許さず牙を剥いてくるという構図である。「楽しいことは長くは続かない」「願いには相応の対価がある」という普遍的なルールが物語を規定している。

しかしこの物語はそのルールどおりには進まなかった。須賀(編集プロの大人)が「大人になれ少年」「お前が島に戻れば全部丸く収まる」と"退職金"を渡し、帆高に島に帰るよう諭すシーンが物語の分かれ目である。帆高がそれを良しとしなかった、大人になることを拒否したことでラストに繋がってくる。

結論から言うと帆高は陽菜を取り戻し、代償として東京(≒抑圧してきた社会)は破壊された。社会を優先させる大人になることを拒否して「陽菜がいないいつも通りの社会」より「陽菜がいる破壊された社会」を選んだのである。

これは大人ほどの分別が無く子供ほど知恵が無い訳では無い少年特有のエネルギーが為せる技で、大人にはこういう選択はできない。それは物語内でも須賀の当初の行動(島に帰るよう帆高を諭し、警察に投降させようとする)として対比的に描かれている。

ここがこの物語の苦しいポイントだ。私たちは少年期のエネルギーを失い、なんやかんやと理屈を付けて「大人の行動」をすることで日々を生きている。そうした自分に気付かないふりをしてきた大人が「勝ったのは少年のエネルギーを捨てなかった帆高と陽菜だけ、後の大人は全員全損」という残酷な物語にダメージを受けている、こんなに悲しい話は無い。我々は新海誠に対する敗北を抱きしめながら人生という水没した東京を生きていくのだろう。

雑記

  • 序盤でVANILLAのトラックや完成した新国立競技場が美しく描かれているのは時代性を感じる。「五輪に浮かれるなんとなく明るい東京」と表裏一体の「2021年以降のビジョンが白紙(というか目を背けている)」という落差を現実に抱える中で東京が大嵐で水没していく描写は示唆的である。
  • 「願いには相応の対価がある」は虚淵玄の得意技で「魔法少女まどか☆マギカ」なんかもそうだがそれさえも舞台装置にして超克していく辺りはまどマギの「叛逆の物語」に近い気がする。
  • 前作よりエロゲ的、それはそう
  • 新海誠は保守的という批評が全く分からない。今作の警察、前作の町役場や建設会社など権力の描写から見るにそれに対峙する主人公たちは反保守的ではないかと思う。