なんでも言及してやろう

世の中を よそに見つつも うもれ木の 埋もれておらむ 心なき身は

映画大好きポンポさんに考える映画の本質

6月4日に劇場公開された「映画大好きポンポさん」という作品は爽快かつ主張の強いエンタメ映画だった。

今回は感想ということで鑑賞後の視聴者を対象に、ポイントごとに見どころを振り返っていく。

巧みな多重構造

この映画の本筋はマイノリティがマジョリティを見返すストーリーである。主人公のジーンは映画監督に憧れるアシスタントで「持たざる者」として設定されている。そのジーンが抜擢された初監督作品に自らの魂を込めて作品を完成させる大筋がまず第一の物語。そして作中で制作される劇中劇の「MEISTER」が第二の物語。さらに第一と第二の外側に広がるこの「映画大好きポンポさん」という作品が第三の物語、そしてもう一つその外側に第四の物語が他の3つを囲い、互いに影響を及ばせながらストーリーが前に進んでいく。ここが本作の巧みな点である。4つの物語を順を追って説明していく。

第一の物語

ジーンは先述の通り根暗で自信が無い一アシスタントである。それがポンポさんという映画にかけてはすべての才を持つ天才に見初められて監督に就任する。それは「目に輝きが無かった」という理由である。偏執的な知識を披露して驚かれては「それしかないんで僕」と言うほどの映画マニアっぷりと異様なほどメモを取る執着心は暗い青春を送った過去の裏返しであり、たった一つだけ彼に残った(彼が残した)映画という武器が蜘蛛の糸が下りてくるきっかけとなった。

また、同時並行で「MEISTER」の主演女優のナタリーの物語も進行する。女優を目指してニャリウッドに来たものの日々の生計を立てるのに精いっぱいの毎日でレッスンすらままならない。肉体労働の合間にオーディションを受け30連敗、レッスンは2週に1度、田舎から出てきた彼女にはそれが最大限の努力だった。そんな彼女にチャンスを与えたのもポンポさんである。彼女の純真さ、ひたむきさがポンポさんに当て書き*1の直感を呼び込み、大女優の付き人を経て主演女優の座をつかみ取る。

この2人に共通するのは持たざる者で、ポンポさんにチャンスをもらったということである。しかし2人の「偏執、ひねくれ」と「純真さ、ひた向きさ」は対極に位置する属性で、どちらに共感する観衆も感情移入できる構造になっている。

第二の物語

MEISTER」は絶対的な名声を得た老指揮者が挫折し、アルプスの麓で少女の純真さに触れて人の心を取り戻して舞台に帰っていくという筋書きである。作中でも触れられているがそのストーリーに斬新さは無い。では何がこの劇中劇を第二の物語足りうるストーリーとしているのか。

それはジーンの人生との相似性である。何も持たない、映画しかない、それ以外を切り捨ててきたジーンと一度名声こそ得たもののそれを失い、音楽しかない、それ以外を切り捨ててきた老指揮者、これがオーバーラップするように設計されている。ジーンはこのことに苦悩を経て気づき、この物語を完成させるために足りないシーンを撮らせてほしいとポンポさんに懇願することになる。ポンポさんからの信頼というジーンが一度得たものさえもベットして博打に出ることでジーンの覚悟が伝わるようになっている。

果たして「足りないシーン」とは老指揮者の別れのシーンだった。音楽のために切り捨てたものを描かなければ説得力が出ないという理屈には頷かされるが、実はそれは本作そのものも同じである。本作中ではジーン自身の過去編はほとんど描かれない。前半でどのようなキャラクターであるかを見せる前に監督に抜擢される展開はいささか急だった。第一の物語と第二の物語の欠けたピースを一致させることで説得力が大きく加算されている。

第三の物語

ポンポさん自身の物語である。「映画大好きポンポさん」というタイトルではあるがポンポさんは狂言回し的な存在で、タイトルは天才ロリが大活躍する映画を求めて来たオタクへのミスリードに近い。それゆえに中盤以降の出番はそう多くはない。

それでもなお読み取れるのはポンポさんは最高の映画を求めており、探し続けてきたという事実である。幼少の頃から一流プロデューサーの祖父に育てられたポンポさんは「映画で感動したことが無い」と言い切っていた。ジーンをアシスタントに、そして監督に抜擢したのもナタリーを発掘したのも最後の映画を見るため。完成したMESITERを見終えた際のリアクションは描かれていないが、去り際に最高の映画だったと告げる。映画が大好きなポンポさんが大好きな映画を撮るまでのストーリーだから「映画大好きポンポさん」なのだ

初見の際に感じたのは、上映開始直後に華やかな歌とダンスと共にスタッフロールが流れる展開の唐突さで、その後始まるマイノリティが戦うという本編の重いテーマにそぐわないような気がした。しかしこの第三の物語を位置づけるとその意味合いが変わってくる。本作はあくまでポンポさんが最高の映画に出会うまでの娯楽作品で、娯楽映画とは楽しくあるべきである。そういう意味ではオープニングは完全に正しい。ポンポさんの物語は先述の2つの本筋を娯楽作品に回収して包摂する存在なのだ。

第四の物語

くさい展開だが、4つ目はあなた自身の話である。冒頭でも述べたがこの作品は主張が強い。

「幸福は創造の敵」

「映画を撮るか、死ぬかどっちかしかないんだ」

「人生は選択の連続、何かを選ぶには何かを切り捨てる必要がある」*2

作中ではこうした主張が繰り返される。根底にあるのは「幸せに生きてきたあいつら(任意の社会的強者)に俺は負けているが、その代わり俺には奴らにはない武器がある」というルサンチマンの思想である。また、「総花的にあれもこれもより一点集中の方が勝つ」という作戦思想も垣間見える。皆さんはこれをどう解釈するだろうか。逆張りで偏屈な筆者としては前者はパワーに勝る最強の強者がすべてをなぎ倒していくこともあるのでは?という懐疑的な見方をしてしまい、後者は勝った箇所では戦力が勝っていたという戦果から逆算した疑似相関のように思える。ひねくれ者はフィクションすら素直に受け取れない…

だが、こうした自問自答もまた作品への回収と考えることができる。映画とは娯楽であると同時に観衆への問題提起である。このような人生が正しい、持たざる者はかくあるべきと訴える映画を見てそれは正しいのか自分の頭で考える過程を生み出すことこそが映画の本質ではないだろうか。

雑感

  • ポンポさん役の小原好美はシャミ子、藤原書記などアホキャラ女王だが天才ロリもはまり役だった。パンフレットでは幼さ控えめの演技を指示されたとあったが、並外れた知性がありながら年相応の幼さも失っていない感じがよく出ていた。
  • ポンポさんやナタリーの豊かな表情も見どころの一つだった。編集が未完成と聞いて拗ねるポンポさん、ポンポさんに顔を近づけられて顔を赤らめるナタリー、映画鑑賞から逃げようとして祖父に無理やり引き止められあがく幼少期のポンポさん…

*1:役者ありきで脚本を書くこと

*2:うろ覚え